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すごい天候でした。東京。

内容については後述しますけれど、今週は木曜日長野、金曜日島根、と出張づいておりました。
今週はちょっと体調が不良でしたんで結構必死な感じでの仕事でしたが。

それはさておき、昨日の東京上空の悪天候でずいぶん空の便に影響がありましたね。
着陸直前で強風が起きており着陸をやりなおす羽目になった便もあったとか。
私も昨日は島根から飛行機で帰ってきたのですが出雲空港で飛行機に乗りこんだ時(すでに20分遅れの搭乗だった。)
CAのみなさんの雰囲気がなんだか不穏。
「1時間なんて機内で待ってもらえないよ・・・」「携帯電話はどうします?」とこそこそ話。

機内に収容されて「さて、そろそろ飛んでもよかろう」のタイミングでもシートベルトサインはつかない。
ああ、やっぱりか。
 機長の放送「東京上空の悪天候により・・うんぬん・・・
        4時15分の予定でしたが5時・・・38分頃には出発許可がでることになっております」


うー。「38分頃」というのが怪しいですね。この場合。
「ぜったいに38分には飛ばないよね」同行ディレクターと小さな声で愚痴りながら
1時間の「機内での地上の旅」が始まりました。

体調が悪かったので温かいお茶が飲みたかったのですが「天候が悪いので本日は冷たい飲み物でご容赦ください」と言われ
しぶしぶオレンジジュースを。
そうですよね。温かいお茶頼んで上空でCAとか客とかが火傷したら大変なわけで。
でも・・・しばらくすると二人して完全に眠りこけ、あっという間に「地上の旅」は終わりましたとさ。
なら愚痴るな、という感じですが。
ちなみにやはり「38分頃」には飛びませんでした。確か50分頃だったのでは。

私は「空の旅」になってからも眠りこけていたので全く恐怖を感じませんでしたが
「すぐに天候が悪化する可能性があるのでお手洗いは今のうち」という機内放送は夢うつつの中で聞こえてきました。
さらにディレクターによるとその後は大変だったらしい。

機内サービスが終わらないあたりに機内放送で機長が
 「客室乗務員は座りなさいっ!」
と一言伝えたんだそうな。
その時の緊迫感と言ったら結構なものだったそう。「えー、そんなに今すぐ、そんなに揺れるの」と。
そして「そんなに揺れた」らしい。確かに着陸後席を離れる乗客はかなりぐったりしてましたんで。

でも、私は寝ていました。すみません。 寝るのは結構得意なもので。
竹内由布子 * その他 * 16:29 * comments(19) * trackbacks(352)

9月23日放送 かつてのファーストレディーにお目にかかる

今週は安倍新総裁企画なのですが「久しぶりのファーストレディー誕生」の絡みで
なんと、橋本龍太郎元総理のご夫人、久美子さんがインタビュー取材を受けてくださいました。
基本的には「安倍夫人、昭恵さんへのアドバイスやファーストレディーの存在意義」などが主な取材内容だったのですが
久美子夫人が本当に沢山の貴重なお話をしてくださったので
番組に反映しきれない部分をここに記しておきたいと思います。

橋本龍太郎氏はご存じの通り7月に突然死去され、政界だけではなく日本中に衝撃が走りました。
まだまだ若く、まだまだ元総理としてやりたいことは沢山あったであろう人物です。
もちろん日歯連事件がらみの疑惑に関してもまだまだ明らかにすべきこともあったかもしれませんが
亡くなった方にその問題を重ねて問うことはやめておきます。

橋本氏が生前お住まいだった場所とは別の場所に現在久美子夫人はお住まいなのでした。
お住まいには在りし日の「あの」笑顔をたたえた橋本氏の遺影と白い花々が飾られ、お線香の香りが焚きしめられていました。
私自身、テレビでは「橋本龍太郎氏死去」のニュースは見ているものの
そのご遺影を拝見してもまだ何となくその急死が信じられない気分でおりました。
素直に伝えましたところ久美子夫人は
「そうですか。私たちもそうなんです。
 急にいなくなってしまうっていうのはこういうことかと、ようやくなんとなく感じられるようになりました。
 すっかり消えてしまったんですよね。
 でもね、『ただいまー』って今でも帰ってきてくれそうで。」
とおっしゃいました。

小さめの棚には沢山の兵隊さんの置物。よくヨーロッパの土産物として売られている、あれです。
まさにぎっしり並べられています。
 「これは主人が好きで、本当に若い頃から集めて大事にしていたものです。
  沢山ありますが自分で並べるんですよ。
  なんだか静かにしているなーと思って部屋を除くと一人で黙々と並べている(笑)。
  『ほら、いいだろ』なんて嬉しそうでした。
  亡くなってからも主人が並べたままを大事に取って置いたのですが、
  先日の東京の大きな地震でほとんど倒れてしまって。
  残念に思っていましたが長男が『父の遺志を受け継ぐ』と笑いながら元のように並べ、
  以来この置物は我が家の地震計となっています。
  『今回の地震では4人倒れたわ』などと言って。」


数にして200体はあるんではないかという小さな置物を背中を丸めて一人で並べていた、なんて、
あの「色気や野心やダンディズムに満ちた」などと称されていた橋本元総理の姿とは
ちょっとかけ離れていて「いい話」じゃないですかウィンク

もう少し年上ですと「日本のファーストレディー」と言えば、三木睦子夫人とか佐藤寛子夫人かもしれませんが
私の年代ですと何と言っても久美子夫人の印象が強い。快活でさばけていて、寛容な女性の印象。
かつて遠くでお見かけしたことがありましたが久しぶりに拝見しても大変綺麗になさっておられました。
ご不幸の後ではありましたが笑顔を絶やさずにインタビューを受けていただいたのでしたが
報道で見たかつてのファーストレディーの印象通りの方でした。

 「ファーストレディーの心得ですか?まあー、ただ自分が楽なようにやっていくということくらいですよ?うふふ。
  印象に残っているのは・・・パキスタンのブット女史ご夫妻にお目にかかったのが
  主人が総理になってから初めての外遊でした。
  主人とブット女史が並び、私と夫君が並んで歩いたときに
  『初めてのことでちょっとナーバスになっています』と夫君に伝えたところ
  こうおっしゃったのです。
  『誰もが初めはそうです。私もそうでした。でもそのうち慣れますよ。』
  そう言われたら、『それもそうだな』と肩の荷が本当におりました。
 
  その後あるサミットでブレア首相の奥様、シェリーさんが初めて参加なさったとき
  同じように『初めてなので・・・私は端っこで・・・』などとおっしゃったので
  私は今度は先輩風を吹かせて『すぐに慣れますよ』と言って差し上げました。
 
  サミットの夫人外交などと言われますけれど、責務だとか、そんな堅苦しいことは思ったことはなかったのです。
  せっかく海外に行ったのだから経験できることはさせていただこうと、
  プランにあったものはすべて参加させていただきました。
  夫も私も厚かましいものですから(笑)。楽しかったですねえ。
  ファーストレディーなんて二度とできるものじゃないですしね。

  今でも連絡を取っているファーストレディーの方っていうのは・・・実はいらっしゃらないのですが(苦笑)
  でも、クリントン前大統領夫人ヒラリーさんは今でもお目にかかる機会があればいいなと。
  ヒラリーさんが大統領候補になられることがあるのであれば、駆けつけて何か力になって差し上げたいとも思います。」


いやー、なんてゴージャス、なんてセレブリティなお話なんでしょうびっくり
さらに。
 
 「サミットでは夫人たちにおみやげがあるんです。
  ベルギーサミットでは『クミコ』の名前を付けた新種のバラの苗をいただきました。
  一時期公邸の庭に植えてましたが、今は地元の岡山の家の庭に植えてあります。
  あるサミットでは、そうですね・・・スカーフとか、膝掛けとかいただきました。
  スカーフが見たい?あらー、使ってしまって、もうグニャグニャになってしまったと思いますよ。」


いやー、さすがです。私がファーストレディーだったらきっと
そのスカーフも膝掛けも使わないで後生大事にとっておくと思いますがラッキー

 「公邸では?別に普通ですよ。末の娘は公邸から学校に通っていました。
  そうですねえ、主人はくたびれ果てて公邸に戻ってきますから、ホッとできるような場所にしていようと。
  総理の間はマッサージ師の見よう見まねで主人の足のマッサージを公邸でやってあげていましたよ。やってあげられることはそのくらいでしたもの。
  でも今思えばよくやっていたわね。総理の任期が終わったら、もう止めちゃったけど(笑)。」


当たり前ですけれど、総理も人間ですものね。足裏も疲れると。
小泉総理は誰かにマッサージしてもらっていたんでしょうか。お姉さんとか?

最後に、知られざる夫婦愛秘話を教えてくださいました。
別の部屋から持ってきてくださったのは金のカフスボタンとネクタイピン。
カフスにはカリグラフィーでイニシャルの「R/H」が彫られています。

 「これね、私が結婚する時に銀座和光で職人さんに彫ってもらって
  主人にプレゼントしたものなんです。(おそらく結納返し)
  カフスを選んだのは・・・ほら、相手は政治家じゃない?時計はなんだし・・・カフスだったら邪魔にならないかと。
  でね、このカフス、例えばサミットとか重要な国会とか、大事な場所では主人は必ずこれをつけていってくれたのです。
  『これをつけていくからな』と言って。」


このお話、実は龍太郎氏の秘書として側にいたご長男の龍氏でさえ数日前まで知らなかったそう。 
女性問題でも世を賑わすことがあった龍太郎氏でしたが、こういった細やかさが久美子夫人を支えていたのでしょうか。

最後に
 「また、こうやって取材受けちゃったら主人は今頃天国で『また、デベソだなー』って言いながら笑っているわー。」
とコロコロと笑っておられました。
久美子さん、貴重なお話ありがとうございました。

 



竹内由布子 * 取材 * 02:18 * comments(0) * trackbacks(104)

UNITED93

同時多発テロの記念日であるきょう、映画「ユナイテッド93」を見ました。

とにかく恐ろしかった。気づいたら恐怖で右手が震えていたのです。

すべての人々がきっと思い出すであろう「その日の自分」を私も映画を見ながら思い出していました。

【2001年9月11日】
その日、関東地方には台風が上陸していた。
私は当時社会部の司法担当記者だったが、被害が出る恐れのある大きな台風の上陸のため中継担当として茨城県大洗町に赴いていた。
夕方のニュース直前に台風の目が通り過ぎ、大きな被害も出なかったためたった20秒ほどの
中継レポートを行っただけ。
少々徒労感を感じながらクルーとともに車で東京へと向かっていた、そのとき。
たまたまついていたNHKラジオが第一報を伝えた。
「アメリカ・ニューヨークの世界貿易センタービルに小型機が衝突、ビルは炎上しています−−。」

TBS報道局に到着し炎上するWTCの映像を見たときの自分の第一声。
「ええ、どうなってるの?これ、映画みたいですねー。」
今思えば大変不謹慎だが、本当にこう言ってしまった。そしてそれを聞いた 居合わせた先輩記者もこう返した。「ほんとだよなー。」
その次の瞬間、二機目が突入。フロアに悲鳴が上がった。
しかし、それでもまだ私の中では「映画みたい」の思いは続いていた。それを一気に払拭したのは報道局に響いた、ある先輩記者の叫びだった。
「これは、テロだ!」

国際ニュースを担当する外信部は戦いの場と化した。
そのとき泊まり勤務の記者と私しか居合わせていなかった社会部も少し遅れて息もつけない状況となったのだ。
「日本人の安否は?世界貿易センタービルに入っている日本の会社は?」
必死にインターネットなどで探して呆然とした。「会社の数、こんなにたくさん・・・?」
その数は日本人の死者が一人や二人では終わらないことを如実に示していたのだ。
そして、次々と中継映像の中で2つのタワーが崩れた。
その後どんなことが起きたのか、何をしていたのか、実はあまり刻銘には覚えていない。
放送を出す、日本人の消息情報を更新しつづける、これのみだった。

その後は皆さんもご存知の通り。名実ともに「戦争の時代」に突入していった。

【その翌年のNY・・・それでも『遠い』】
偶然その翌年、テロ一周年の時をニューヨークで過ごすことになった。
何もなくなったグラウンド・ゼロも見た。裏道に入ればまだ埃と瓦礫で街は汚れていた。
TBSニューヨーク支局が当時どれだけ大変な思いをして報道を続けたかも聞かされた。
記念式典で涙を流す遺族にも取材をした。

隣のファイナンシャルセンタービルのオフィスから見た光景を「WTCからヒラヒラと人が落ちていった。」と表現した私の大学時代の後輩がいた。
「勤務していた銀行のオフィスから『ただ黙々と』階段を下りつづけ避難し、外界に出てから30分後にタワーが崩れた」と聞かせてくれた大学の先輩もいた。
彼のアメリカ人の同僚は逃げ遅れて亡くなっていた。
さらに、もう一人たまたま会議で来ていた女性の先輩もWTCに向かっている途中に崩壊に遭い
体中アスベストだらけになりながら逃げたそうだ。
たまたまこれだけ多くの自分自身の親しい人たちが事件に遭遇していたのに驚いた。
亡くなった24人以外にも、どれだけの数の日本人が事件に遭遇していたことか。

しかし、そんな風に様々な角度から同時多発テロを体感していったはずなのに、
実は私の中ではずっと同時多発テロは「遠いもの」でありつづけている。
それは事件が起こるまでのWTCを見たことがなかったこともあるかもしれないが
それ以上に、きっとテロの後アメリカが向かっていった方向が私自身の理解を越えていた。これが原因なのではないかと何となく今思っている。

【そしてむしろ「映画みたい」ではなかった「UNITED93」】
一方きょう見た映画「ユナイテッド93」。
これまで見たり聞いたりしたもののどれよりも恐ろしかった。
アメリカ人はこの映画を見てどう思うだろうか?やはり「テロは恐ろしい」と思うだろうか?
私はそうは思わなかった。「テロが」ではなく、「人間が恐ろしい」と表現したらいいのだろうか・・・。

この映画はある意味「フェア」だ。

ユナイテッド航空93便の乗客乗員が最期の言葉を家族に残そうと必死になるのと同様、テロ犯たちも家族に別れの言葉を述べて犯行に向かう。
最期の時を迎える直前、被害者の乗客乗員と加害者のテロ犯たちは言語は違うが同じ言葉を口にする。「神様・・・。」
ハイジャックに勇敢に立ち向かう乗客達の一方、その脅威におびえるむしろ「弱っちい」テロ犯たちの姿も描かれる。

モハメド・アッタ
9・11テロでアメリカで最も有名なテロ犯は
「モハメド・アッタ」であろう。(写真)
一番最初に衝突したアメリカン航空11便の操縦をしていたとされる。
彼の当時の扱われ方は、何しろ「悪魔」だった。
ご覧のように、写真の顔が何しろ怖いのだ。
そのせいもあるだろうが当時はテレビニュースでも新聞報道でも漫画でもコメディー番組でも、
とにかく「テロ犯=アッタ=悪魔」という公式だった。と私の目には見えた。
もちろん命を失った被害者の遺族にしてみたら彼らは悪魔以外の何者でもないだろうが
映画「ユナイテッド93」に出てくるテロ犯たちはそのイメージを覆す存在で敢えて描かれていたのが驚きであった。
アメリカ国内で「テロを克服しつつある強いアメリカ」を強調したいがための演出なのか?
それとも「ある意味フェア」な 9・11テロ、そしてその後のアメリカの姿の認識が
現在のアメリカ国内に広がっているからなのか?
それは今日本にいる私にはわからない。

ともあれ物語が終わってもほとんどの観客がエンドロールが終わるまでぐったりと席を立てない、そんな映画は久しぶりでした。
竹内由布子 * その他 * 23:48 * comments(5) * trackbacks(8)

再びテンプレート変更

春に気分転換にテンプレートをピンク系にしたのですが
再び落ち着いたテンプレートに戻しました。
多少読みにくくなる所はぼちぼち修正して参りますのでご容赦を。
今後もご愛顧くださいませ。
竹内由布子 * - * 19:56 * comments(0) * trackbacks(16)

8月12日放送から〜岐阜県庁の裏金問題に怒りがおさまらない

再度ご無沙汰いたしておりました。
書きたいことは山ほど。でも一気に書けるほどの時間が作れず。

8月12日放送回は岐阜に赴き、裏金問題の取材をして参りました。

まず土地勘がないことからタクシーの運転手さんたちに聞き込み。
ここでまず容易に裏金の実態の証言者に出会ってしまった。

【タクシー運転手の証言】
「岐阜県庁?ああ、裏金問題が表沙汰になってからとんと乗ってくれないねー。
 以前は県庁の正面玄関に料亭のバスがついて、そこにぞろぞろ職員が乗っていく。
 そして乗り切れなかった職員たちのためにタクシーが何台か呼ばれる。
 無線では『お代は○○(料亭の名前)からもらってください』と言われるんだよ。
 だから職員からじゃなくてタクシー代は店についてから女将さんからもらうんだ。
 問題が表沙汰になったから『これは変かも』と思い始めたけどこれまではおかしいことと思わなかった。
 なぜかって?だって料亭が自分たちのバスに乗せきれなかったのが申し訳ないから
 タクシー代を出したんだと思っていたから。
 それに、そういう光景は自分がタクシー運転手になったときからずーっとあったから
 おかしいなんて思ったこともなかったんだよ。」

普通に考えれば県庁の正面玄関に料亭の車が横付けされ職員がぞくぞくと乗り込むなどという光景は異様だが、
それらは岐阜の常識であったのだ。
そしてこの話は後に 元県庁幹部への取材で実情が詳しく明らかになった。

【元県庁幹部の証言に仰天】
つてをたどってなんとかたどり着いた元県庁幹部。
県庁でも活躍をし、退職してからも精力的に活動されている方だということで、
思い切って膿を出すつもりでインタビューに答えていただけることを期待した。
しかし・・・インタビューのために借りたホテルのスイートルームで、
空腹とおっしゃるので頼んだルームサービスの食事を(当然のように)召し上がり、
私がカップに継ぎ足して差し上げたコーヒーを(当然のように)飲み、
その上でこうおっしゃった。
「裏金なんて言うのはなー、『有史』以来存在してるんだ。
 俺が県庁に入ったときからあった。なんていうか、潤滑油みたいなもんだよ。
 だって、あんた、今俺が食べた食事とかコーヒーとかを あんたが自腹切らなくたって会社が払ってくれるだろ。
 (竹内は一応「ええ、まあ。」と答えます。)
 それと同じだよ!仕事で飲み食いしたり、させたり、というのをちゃんと業務上のもの として支払うシステムができていない。だから裏金は必要なんだ。」

黙って聞いていると彼はこう続けた。

「でもそもそも何が悪いって、国の補助金制度が問題なんだよ。
 国からの補助金を使い切れない年があったとして、それを返したいと地方自治体が考えたとする。
 でも国は『返してくれるな、使い切れ』というだけだ。
 補助金を返すという制度がない。だから行き場を失った補助金はどこかに貯めておくしかない。
 でも貯めて使った形跡がなければ国から『そんなにいらないなら補助金は減らす』と言われる。
 減らされてしまった後に必要になっても増額できないから、それを使った形にする。
 そのためにどうするか?え?どうすると思うか?ふふふ。
 店を財布みたいに使うんだよ。店はいくつか県庁御用達が決まっている。
 そこに省庁の役人接待か何かの時に本当は総勢5人しか飲み食いしていないのに
 『10名飲食代』一人1万円で支払う。すると領収書は10万円だが5万円しか飲み食いしていないから残り5万円は店にプールされる。
 こうしてやりかたで店にプールしていった金で、次の時に職員同士の飲み食いで使ってしまったり、役所関係の冠婚葬祭のときに現金の形で引き出したりして使い切るんだ。」

びっくり・・・開いた口がふさがらなかった。

つまり前段のタクシーも同様だ。料亭のサービスなんかであるわけがない。
そうやってプールしてきた裏金でバスやタクシー代を、さらに料亭での職員同士のドンチャン騒ぎまでもまかなっていたということなのです。

そうやって悪びれずに「ぶっちゃけトーク」を繰り広げる御仁にインタビューのお願いを始めた。
ここまで話すんだからカメラの前でも話してくれるかも知れない。
「あなたの素性は絶対にわからないように加工します。
 当時はともかく今思って もし良心の呵責がおありならば県民への罪滅ぼしと思ってお話いただけないですか?」
と必死に頼む私。しかしそれに対して驚くべき答えが返ってきた。
「良心が呵責?別にないよ。だって、当たり前のことだったんだもの。
 むしろ、インタビューなんかに答えたら仲間を売ることになる。そっちの方が良心の呵責を感じるよ。」

冷や汗・・・みなさん、どうお感じになりますか?

【『柳ヶ瀬ブルース』が泣いている?】
そして私たちは夜な夜な全国的に有名な柳ケ瀬のネオン街の店々を回り、いくつかその「御用達店」を見つけることはできた。
外観からは普通の和風居酒屋的な料亭○○や、すこし気取った料亭○○、
キャバクラよりもずっと落ち着いたラウンジ○○、またこぢんまりとしているが明るく上品なパブ的店○○などなど。
そのうちその夜にはいくつか店主と話ができたが
「県庁の方?いらっしゃいませんねー。うちに来られるのは社長さんとかですから。」
などと逃げ口上をしれっと言われてしまうとそれ以上つっこめない。
翌日以降にオンブズマン活動をしておられる方から領収書の資料コピーをいただいた後であればもっとつっこめたのだが、証拠を得た後に再度来る時間がなかった。
悔しい・・・。
それでもある店の店主や働いている女性達のインタビューは、顔NGだが撮れた。
彼女らの店も「財布」であった可能性は十分あるだろうが、それに関しては「知らない」と言った。
 「県庁職員たちだけで、一晩20〜30万円を使う飲み方でしょっちゅう来ていたわ。
  でも、県庁の人たちってこの地域ではエリートでしょ。羽振りがずいぶんいいもんだと思っていた。」
という証言。私たちにとっては放送に反映できるありがたい証言だったが、
証言VTRをスタジオで見たさくらパパは放送で一喝。
「店の人だってグルでみんな知っているのになんで告発しなかったのか。今頃言ったって遅すぎる。」
確かにおっしゃる通りです。ただ、そうやって柳ヶ瀬の街は成り立っている部分があったのかもしれません。
だって、ただでさえ一時期の超不景気から勢いを失っている最中 
今回の上客の裏金問題で夜の街は本当に閑散としていました。
取材で店回りしているのに「話はいいから飲んでいってよ」と誘われる始末。もちろん断りましたけど。

【職員組合の現実】
委員長が「金庫は私たちのものだから」と開けるのを拒んだ職員組合にも参りました。
これだけ問題になっているのに対応した書記長・書記次長は当初自分たちの肩書きも名前も名乗らず、
「開けるのだけはご勘弁ください。」(竹内:開けては困る理由は?)「・・・・。」
とお話にならないやりとりを繰り返す。
2時間怒ったりなだめすかしたりした後、別の予定も入っていたので一旦退却。
その後「中の撮影できます」と電話があった。
ようするに彼らは肩書きがありながら自分たちで判断できない管理職であったということだった。
「こういう取材に慣れていないので・・・」と彼らは言った。
そういえば同じセリフを先日パロマの不正改造問題の取材の時にも聞いた。
パロマも当初広報担当はいない、会社の瑕疵を認めた後にそれに反するような会見を一方的に行って質問も受け付けない、など「どーなってるの??」的な対応だったが
しかしパロマはそんな甘いことを言っていると「会社がつぶれる危機」にさらされる。
危機に気づいたパロマは慌てて社長に度々謝らせたり、慌ててCMを打ったりしていった。
しかし県庁は「つぶれる」ということはないのだ。

2時間のほぼ一方的な討論の中で一つわかったことがあった。
職員組合の金庫内に移された裏金はまさに情報公開から隠された物であったため、いわば使途問わずの金。
よって結局職員組合内の飲食や組合員の生活費などにあてられていた。
生活費などは「職員への貸し付け」という言葉を書記長は使って説明した。
「貸し付け、ということでしたら、誰にいくら貸して誰がいくらまで返しているというデータはもちろん組合では帳簿でつけているのですね?」
の質問に対して書記長しどろもどろで「・・・確認しております。」
要するに使途問わずの大金は「貸し付け金の元手」ではなく「もってけドロボー金」に実態は近かったのです。

余談ですが、金庫撮影前に委員長が私たち記者達に問いただしました。
「大金が入っている金庫を撮影許可したことで、万一空き巣に入られるなどということがあった場合、報道した側の責任をどう考えるのか聞かせてください。
 はい、まずTBSさん。」
[:ふぅ〜ん:]
申し訳ないけれどここまできたら呆れて物も申せません。
その場では言いませんでしたけどブログだからこそ言わせてもらいます。

「ドロボーは、どっちなの??」

【あー、よく怒った数日間でした】
元幹部が言っていたように裏金の源資の多くは国の補助金です。
確かにシステムの不備があったとはいえ、余った補助金をプールして飲んで遊んで借り倒して良いという法律はありません。
岐阜県民だけではなく国民全体がもっと怒らなくてはならないのではないかと痛感いたしました。
きょう、梶原前知事が会見で謝罪していましたが
県庁がやるべきは「いかに本気で取り組んでいるか」の誠意を国民に示すことでしょう。
かつて宮城県の裏金問題に取り組んだ浅野元知事は言いました。
「裏金問題っていうのは体にできた膿みたいなもので放って置いたらどんどん広がる。
 全国が問題に取り組んでいるときに取り組むことがなかった岐阜はより患部を大きく切り取ることが必要となる。
 それをできるのは半分身内で半分外部である知事だけだ。
 ただ、それは右手で左手を切り落とすようなものだから非常に強い気持ちが必要となる。
 現知事が今後どのような処分を行っていくのかお手並み拝見。それが一番重要。」

岐阜鵜飼い
ちなみにこの暗闇の灯りは長良川の鵜飼い。
たまたま通りかかって、初めて見ました。風流ラブ
竹内由布子 * 取材 * 02:53 * comments(0) * trackbacks(2)

さくらちゃんもびっくり?!

さくらちゃんもびっくり
この日のゲストは「さくらパパ」こと横峯良郎さん。
さくらちゃんの「70度サンドウェッジ開発秘話」は面白かったです。
さくらちゃんが使用しているそのサンドウェッジを
番組終了後に握らせてもらいましたが
驚いたのは70度もそうですが、そのグリップ。
薄いピンク色は有名ですが触るとベタベタしているのです。
まるで松ヤニでも塗っているかのよう。
特別な素材でできているのだそうです。

あ、写真はみんなの度肝を抜いたスタジオ内バンカー。
良郎さん、後の二回は失敗でしたが初回でバンカー脱出成功とはさすが。
ちなみに写真の右端に小さく久保純子さん。
「やってみたいー」ということでチャレンジ。
その後そそくさとバンカーを後にしたところから、結果は想像してください楽しい
竹内由布子 * 会社で * 16:24 * comments(0) * trackbacks(94)

7月4日直前のワシントンDCをぶらぶら

そんなこんなで予定通り帰国できず、思いがけないワシントンでの休日が
ぽっかり一日できてしまった7月2日。

DC JULY4
ホテルの壁面は星条旗で埋め尽くされていました。
「そうか、あさっては独立記念日だ。」


ワシントンDCはすっかり連休モードでどの博物館も大混雑。
以前来たときに見損なった「ホロコースト博物館」を見ようと
朝の中継が終わった後に一休みしてから赴くとすでに整理券は売り切れ。

仕方なく「国立アメリカ歴史博物館(Nationl Museum of American History)」に入ってみました。
たまたま9月の頭までの予定で
The Price of Freedom: Americans at War(自由の代償:戦争とアメリカ人)」の展示があったからでした。
DC戦争博物館
Webでも展示が見られます→こちら

独立戦争から第二次世界大戦、ベトナム戦争などなど
駆け足でまさに「戦争の歴史」といえるアメリカの歴史を見ていくことができるのでした。
もちろん太平洋戦争については
「大日本帝国の南京大虐殺・真珠湾攻撃・原爆投下→平和への道」という道筋で
展示されておりましたよ。

興味深かったのは「イラク戦争」のエリア。
DC戦争博物館イラク戦争2
展示はたったこれだけ。

同時多発テロのコーナーにはWTCの瓦礫など大きな展示がありましたけれど
ここの展示は兵士の装束や「ウォンテッドトランプ」、
従軍メディアのパソコンなど程度。
他の戦争については当時の大統領の発言などが展示されている一方で
イラク戦争についてはブッシュ大統領もラムズフェルド国防長官の写真も発言も展示がないのです。
不思議です。

評価はこれから、ということなのでしょうか。

それにしても「自由の代償」というテーマは考えさせられますね。

アメリカの言う「自由」を維持していくためには
いつの時代でも「戦争」を実行していかなくてはならないという
「総意」がアメリカ人にはあるのでしょう。

同じ戦争博物館でも日本にあるものとは全く違う。
 (たとえば「二度と戦争を起こしてはならない」といったメッセージはない)
もちろん、別の意味で靖国神社の「遊就館」とも全く違う。
 (たとえば「命を国に捧げた英霊を悼み祀る」といったメッセージもない)

子供たちも含めて沢山の人たちが熱心に見学していました。
相応の語学力と度胸が許せば「これみて何を思うの?」と聞いてみたかったのですが
外国人と見られる見学者がほとんどいないようだったので
できませんでした・・・。
竹内由布子 * その他 * 01:25 * comments(2) * trackbacks(137)

7月1日放送・・・に間に合わなかった・・・

エアフォースワンを見て「すっげー」と叫ぶカメラマンまではお伝えしました。
その後の話です。

【とんだハプニング】
メンフィスの街の様子とエルビス邸グレースランド取材などを終え
メンフィス空港からシカゴ経由で成田に向かう。
「良かった間に合った」と飛行機に乗り込んだのですがなかなか飛び立たない。

しばらくして機内放送。
「ブッシュ大統領が乗ったエアフォースワンの到着遅れのためこの飛行機の出発は遅れます」
・・・ええびっくり??・・・

エアフォースワンは通常2機で動きます。
私たちが見たエアフォースワンの次の機体の到着が遅れているというのです。
待つこと30分。ようやく飛行機は飛び立ちましたが・・・まずい。
シカゴの乗り換えが間に合わない。

シカゴに到着し「間に合わないよー」と叫んでいると見かねたパイロットが
乗り換え先へのバス乗り場まで走りながら送ってくれたものの
別れの言葉は「悪いけどグッドラック・・・としか言えないよ。」。
そして案の定、乗るはずだった飛行機は私の目の前で飛び立っていったのでした。
もし日系の航空会社であればメンフィスでの遅延はシカゴに伝わり
ギリギリで搭乗口に現れるに違いない乗客の乗り込みを待って飛び立ったことでしょうけれど
おーいUA!! どうなってるんだよーーー泣き顔
土曜日の放送に間に合わないよーーー。

仕方がないので紆余曲折あってワシントンDCの支局から中継することに。
放送では何事もなかったかのように中継しておりましたが
こんなハプニングがあったのでした。

でもDCの滞在によってアメリカでどのようにコイズミ総理の訪米が
伝えられているかがじっくり知ることができて良かったのでした。

【アメリカはコイズミ訪米をどう伝えた?】
アメリカメディアは小泉総理の訪米をびっくりするほど多くの時間を割いて伝えていました。

●あるテレビニュースでは・・・
 「続いては日本の総理大臣が大喜びです。チャンネルはそのまま。
   〜ラララ〜♪(小泉総理が歌うシーン)→CM」
 つまり「CMまたぎ」に使われ。

●あるニュースでは「最後の柔らかい話題」扱いで伝え、スタジオのキャスターが笑顔で一言。
 「おっもしろい方ですね〜。でも、いいじゃないですか?ねえ?」

そして中継でも伝えましたがワシントンポストは一面一杯に写真を掲載したうえ
テレビ番組紹介ページに「カラオケ外交」と銘打って
ブッシュ・小泉のメンフィスでの会話を細かに伝えていました。
私が目にした中では一つの番組だけは
気むずかしげなコメンテーターが「一国の総理がわざわざやることじゃない」と辛口コメントしてましたが
キャスターはなんだか笑顔でそのコメントを流してしまっていましたっけ。

ワシントン支局長によると
「先日の中国の首脳会談と比べたらこんなに日本の総理の訪米が伝えられるなんて考えられない」とのこと。

日本のメディアの多くが今回の訪米を
「小泉さん、はしゃぎすぎて恥ずかしいですよ〜」といったトーンで
批判的に伝えたと思います。
確かにアメリカメディアでは「日米首脳会談」で何が話し合われたかは
わずかしか伝えていない所を見ると
「小泉総理は一体何をしにアメリカへ?」という議論になるのもやむを得ないかもしれません。

ただ。

少なくとも小泉総理は「アメリカ人に愛される人」であることは確かなようです。
ああいう、「覚えやすい外見で」「派手なパフォーマンスをし」「エルビスが好き」というキャラクターを
きっとアメリカ人は好きなんだ。

そういう風につくづく感じ、なんだか苦笑するしか、なかったのでした。
竹内由布子 * 取材 * 00:28 * comments(0) * trackbacks(1)

7月1日放送 小泉総理は見られなかったけれど

6月28日から小泉総理の訪米にあわせてメンフィスに行って来ました。

と言っても小泉総理がメンフィスに来る前にメンフィスの取材を終え、
エアフォースワンで到着するのを確認してから
慌てて東京に戻り、土曜日にはスタジオにいないとならない予定の強行軍。
一応メンフィスのエルビス・プレスリーの博物館であるグレースランドで
事前にプレスツアーで取材できることがわかり
急遽アメリカ取材をすることになったのでした。

【メンフィスで】
メンフィスは観光地ですが暢気な南部の色が濃い「いかにも地方都市」。
ブッシュとプレジデント・コイズミが来る、のですが
想像通りのんびりムード。
よーく見るとこういう横断幕が。
ようこそ横断幕
ご苦労様です。
まあ、小泉さんはたった数時間メンフィスに滞在するだけですから
これだけやっていただけるだけでも大歓迎なのかもしれません。

メンフィスの人によると、小泉さんの訪米予定の5日くらい前に
その事実が地元紙に報道されたためそれで初めて知った人がほとんど。
訪米の2日前はちょうどその話題がHOTな状況であっかんべー
聞く人聞く人
「知ってるよ〜日本の総理が来るんでしょ?
 えーっと、名前は・・・そうそう、コイズミ。」
「エルビスと同じ1月8日生まれなんでしょ。」
「銅像作ったんだって?CDも発売したって聞いた。」
「あのシルバーヘアーはファンキーで好きだな。」と
口々に新聞やテレビで知った知識を披露してくれるのでした。
いやー、驚きました。
これまでにこんなアメリカの南部の町でこれだけ知られた日本の総理はいないでしょうね。
ま、知っていると言っても「エルビスのBIG FAN」であるということだけですけれども。

取材は分刻みだったのでろくな食事ができませんでしたが
唯一きちんと食べたのが小泉総理がブッシュ夫婦と昼食を取ったレストラン。
その名も「ランデブー」てれちゃう
小泉総理とブッシュ大統領のラフな逢瀬にはぴったり・・?
ランデブー外観
ランデブーリブステーキ
右はこのレストランのメインメニューであるポークリブ。




ケイジャン料理らしくスパイシーなのですが何しろ大きい!!
30センチくらいの長さがあるので初めの一口はおいしいのですが・・・
ちょっと最後は正直言って飽きましたムニョムニョ
このレストランは老舗だそうで、有名なのですが
行きの飛行機の中で乗り合わせたUAのパイロットによると
Neely's Bar-B-Que(ニーリーズ・バーベキュー)と言うところの方が
ランデブーよりもおいしいよ、と教えてくれたのですが
確認する時間はありませんでした。残念。
しかしこのスパイシーなリブを小泉総理はちゃんと召し上がったのでしょうか??

メンフィス、と言えばブルースで有名な「ビール・ストリート」なんですが
ブルースを聴くヒマはもちろんなく、
小泉さんに一言言ってもらうためにエルビスのそっくりさんを訪ねただけ。

ちなみに情報収集のために日本大使館の方と話したのですが
彼曰く「竹内さん、BBキングズ行きましたか?ええ?行ってない?
 残念ですねー。5ドルであんなにいい音楽聞ける経験なんて
 なかなかできないですよ!!」と。
かなり興奮の面もちでしたからさぞかし楽しかったのでしょう。
ウラヤマシイ。
BBKing'sと言えばビールストリートでは有名な、音楽を聞かせる所だそうで
総理のお迎えのためにメンフィスに集合した大使館員たちも
長い準備期間の楽しみをそういった場所で見いだしていた様子が興味深い。

【そしてついにエアフォースワンが!】
そして迎えた6月30日。
いよいよ日本の総理を初めて乗せたエアフォースワンの姿を撮影しに
空港周辺でうまく撮れる場所を探します。
次々と通行止めになるなか必死に場所探しをする私とコーディネーターを後目に
なぜか今日は動きが鈍いアメリカ人クルー達。
「なんでだろう?ここ数日過酷に働かせすぎたか?」と疑問に思っていたのですが・・・。
午前10時ちょうど。エアフォースワンが思惑通り私たちの前に見えてきました。
さあ、レポート!とカメラの前に立った瞬間、とんでもないことが!
カメラを回しながらアメリカ人カメラマンが叫んでいたのです。
「Holy Cow!本当にエアフォースワンだ!すげー!信じられなーい!」

おいおいひやひや

メンフィスのローカルである彼らは人生でエアフォースワンを目にしたのが
初めてであり
動きが鈍かったのはどうやら「エアフォースワンなんて見えるはずがない」と
高をくくっていたからだったのです。
しかし実際目の前に見えた!
で、「すっげーーー!!」たらーっ

カメラ回しながら感嘆の声を叫ぶカメラマンなんて初めて会った。

そんなこんなで怒濤のような出張が終了し、一路OAに向けて帰路に向かう・・はずでした。
(続く)

竹内由布子 * 取材 * 19:04 * comments(0) * trackbacks(0)

5月25日 御巣鷹の尾根に登ってきた

5月28日放送「ライブドア事件初公判」企画の取材のために
堀江貴文被告が保釈後登ったという御巣鷹の尾根に登ってきました。

別に登ったからと言って堀江被告の気持ちがわかるわけではないですし
わかろうと思って登ったわけでもありません。
ただ、堀江被告が見てきた御巣鷹の尾根は現在どうなっているのかを知りたかった。
あの未曾有の事故から時間が経ち、御巣鷹の尾根を目にするのは
一年に一回の事故の記念日に供養が行われる時のみ。
そのときは遺族、そして日本航空関係者が大勢登っていく光景が主題であり、
御巣鷹の尾根が実際どのようなものなのかを
私自身は登ったことがないために知らなかったのです。

御巣鷹入り口
これが御巣鷹の入り口です。
本当に良いお天気でした。

実は登る前に局の先輩から「御巣鷹は年配の方々も登れるくらいだから大したことない。登山というよりも階段を上る様な感じで
30分もあれば登れる」と言われ
少々高をくくって出発しました。
しかし・・・
カメラや三脚などを持って登ってくれたクルーはもちろんのこと私も汗だく。
次の供養の日を目指して登山道は工事中で迂回路を行くしかなかったことと
雨上がりで道はあまり良い状態ではなかったこと、
さらに取材しながら登ったことから
結局頂上までたどり着くまでに3時間もかかってしまったのでしたひやひや
そもそも階段などは麓と頂上付近しかなく、ほとんどは登り坂。
去年は大雨が供養の日でしたが足場が悪いと年配の方々にはご苦労でしょうね。

さらに驚いたのは堀江被告だけでなく、平日にも登っておられる一般の方々が結構いらしたこと。
失礼ながら御巣鷹に登るのはご遺族だけかと思っておりました。
地元でご供養のためにしょっちゅう登られる方々から、
埼玉あたりから足をのばして「初めて登った」という方も多かったのです。

御巣鷹の尾根で20年経った現在なのに、どうみても機体の一部と思われる
一部が焦げたプラスチック片を発見しました。
そして頂上付近には炭化した大きな樹木がその姿を保っていました。

御巣鷹木
途中には「すげの沢」と呼ばれるおよそ150名もの遺体が発見された場所を中心に
沢山の被害者の方の名前が記された墓標が立っていました。
死者の尊厳を尊重する意味でもその光景を写真に撮ることは控えましたが
何しろ圧倒されました。
わかってはいたつもりでしたが500名を超える死者という事実が訴える物は大きい。
時に群集し、時にぽつんと現れる墓標の数々に手を合わせました。

そして到着した頂上。
御巣鷹頂上
頂上には碑の他に受取人不明の遺品を納めた場所、
そして小屋のような小さな奉りどころなどがあります。
その小屋に参った時の感覚というのは・・・。
何ともうまく言葉にできないものがあります。
20年経った今も本当にきれいで
多くのご遺族と航空会社が丁寧に管理していることがよくわかります。
しんと涼しい小屋の中には所狭しと故人の写真が壁に貼られ、お菓子や、サッカーボールなど故人の持ち物などが飾られていました。
写真は家族写真や、証明写真を大きく引き伸ばした物、
仲良くしていた仲間達などと集合で撮ったと見られる物、
まだ1歳にもならないような赤ちゃんの写真もあります。
その写真の新しさのために(本当はもちろん20年前の物なのでしょうが
雨風にさらされることなく大事に保存されているので)
なんだかまるで私自身に近しい人の写真がそこにあるようで、
写真の一枚一枚の視線と目が合うたびに胸が痛くなるのです。

頂上からは機体が尾根をえぐった跡である「U字溝」が見えます。
U字溝
木が生えそろった今も残る溝に
焼けこげた尾根を深くえぐっていた、
当時のブラウン管の中のU字溝を思い出しました。


私はまだ当時子供でしたが夏休みの旅行中に事故は起き
テレビの前に座って、
年が私の一つ上だった川上慶子さんの救助風景を中継でずっと見ていた覚えがあります。
そして数日後の新聞には亡くなった520名全員の顔写真が
何ページにもわたって掲載されていたのもよく覚えています。
そして大人になりテレビ局に入ると当時その現場に初めて登ったカメラマンや
遺体安置所でずっと取材することになった先輩などから話を聞くこともあり
日航機墜落事故は私にとってはただの20年前の印象的な事故、というのを超えた物であったのでした。

碑の前には鈴がついた小さな短冊を結びつける場所がありました。
その短冊に登山者が思いを書いて結びつけるのです。
4月末に今年の登山が解禁になったばかりということもあり
つい数日前くらいに書かれた短冊が沢山ありました。
「今年も来ましたよ。年々道のりがきつく感じられるようになりました。」
「事故の記憶はないけれど○○は○歳になりました。
 ここに来るとお父さんに会える気がします。」
などと書かれた短冊を見ると
20年というの日々は長いけれど短い。
遺族の方々の思いは今も続いているのですから。
竹内由布子 * - * 19:39 * comments(2) * trackbacks(1)
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